遠すぎた橋(1977)A BRIDGE TOO FAR
以下、雑誌記事より引用
史上最大の作戦
1944年6月5日。アメリカ、イギリスを中心とする連合軍は、史上最大と言われたヨーロッパ反攻のためのノルマンディ上陸作戦を敢行。
ドイツ軍の防衛線を撃ち破って進撃し、8月25日にはフランスの首都パリを解放し、連合軍は全戦線でドイツ国境へ迫るほどにさえなっていた。
そのノルマンディ上陸作戦から3カ月たった1944年9月5日、兵力が目立って減少し、疲れ切ったドイッ軍は、突然オランダの主要都市や村から引き揚げを開始した。
5年にわたるドイツ軍の占領から解放されるーーーオランダの人々は、引き揚げていくドイツ兵たちを見ながら、戦争の終結と平和の訪れが近いのを予感していた……。
ーーー15日後の9月10日、ロンドンにあるブラウニング中将(ダーク・ボガード)の司令室に、連合軍のそうそうたる司令官たちが集まって秘かに会議を行っていた。
モントゴメリー、アイゼンハワーの英米両元帥が決定したいわゆる”マーケツト・ガーデン作戦”の決行に関する会議であった。
この作戦とは、ドイツへの道にかかる5つの橋を連合軍の空挺師団が空から奇襲する『マーケット作戦』と、オランダ、ベルギー国境に集結した戦車縦列部隊が陸からドイツ軍を同時に襲うという『ガーデン作戦』であり、いっきにベルリンへの進撃路を開かんとするのが狙いであった。
5000機の戦闘機、爆撃機、輸送機。2500機のグライダー。そして戦車をはじめとする2万の車輛、30個の部隊、約12万人の兵士を動員すると言う、まさに史上空前の大作戦であった。
『マーケット作戦』の総司令官であるブラウニング中将は『レベッカ』で知られる小説家ダフネ・デュ・モーリエの夫であり、いかなる時も優雅さを失なわないイギリス軍人であった。
だがブラウニング中将は、このような作戦を今まで統率した経験はいちどもなかった。
●アメリカ陸軍最年少の准将ギャビン(ライアン・オニール)の率いるアメリ力第82空挺師団は、オランダの中央高地へ降下。
●歴戦のベテランだが落下傘降下の経験のないスコットランド人・アーカート少将(ショーン・コネリー)のイギリス第1空挺師団はオランダのアーンエムへ降下して橋を死守。
●アメリカ第101空挺師団長テイラー少将は、南部の諸橋梁を占領確保。
●ポーランドのソサボフスキー少将(ジーン・ハックマン)指揮の空挺旅団にはアーカートと行動を共にするーーー以上の命令が下され、作戦決行は1週間後の9月17日と決められたーーー。
MG作戦GO!!
このマーケット・ガーデン作戦にふと不安を感じた男がひとりいた。
アーカート少将と行動を共にするように命じられたソサボフスキー少将であった。
彼は、この作戦の中心地になるであろうオランダのアーンエム付近の地形の困難さを熟知していた。
『このマーケット・ガーデン作戦は、あるいは無謀な戦いになるかも知れない』ソサボフスキーは秘かにその戦果に危恨を抱いていた。
ーーーその頃、連合軍のこの作戦を知る由もないドイツ軍司令部では、知的で高貴だと言われるビットリッヒ中将(マクシミリアン・シエル)が、自分の率いる第2SS機甲軍団に、アーンエムへの徹退を命じていた。
これに前後して、連合軍側へひとつの情報がもたらされた。
父親と共にドイツ軍へのレジスタンス運動を続けているオランダの少年が、オランダのアーンエム付近でドイツ軍の将軍を目撃したと言うのである。
『アーンエムにドイツ軍が結集しているらしい』ーーーこの少年の情報はロンドンにいる連合軍の情報係将校に報告され、アーンエム付近の空中撮影も行われ、ドイツ軍が集結しているからマーケット・ガーデン作戦は危険であると立証されたが、こうした作戦を統率した経験のない連合軍のブラウニング中将は、この報告を黙殺したーーーここにマーケット・ガーデン作戦の暗い結果は予想されていたのであり、同時に、アーンエムにくわしいソサボフスキーの危恨は不幸なことに適中する結果になったのである。
それはさておき1944年9月17日、日曜日ーーー世界でも指折りに美しい国オランダのこの日は、オランダ王国はじまって以来の美しい秋の朝だったと言われる。
そしてこの一平和な日に、歴史に残る”マーケット・ガーデン作戦”が決行された。
巨大な編成の輸送機がアーンエムの空をまっ黒に埋め尽くし、おびただしい数の落下傘がアーンエム近郊に降下する。
ベルギーからは無数の戦車が列をなし、アーンエムへ北上する。
先頭をきる連合軍のアイルランド部隊の前方を何期門と言う大砲が作烈し、後続の連合軍のための進路開いていく。この時まで、誰もが連合軍の勝利を信じていた筈だが……。
適中した不安!
しかし、先頭をきっていた戦車が突然火を吹きはじめた。
ドイツ軍の待ち伏せ攻撃だった。
数台の戦車が炎につつまれた。
幸いなことに、イギリスのタイフーン戦闘機団が空からこのドイツの待ち伏せ部隊をせん滅した。
だがやっかいな問題が起きた。
9台の戦車が火を吹き、ブルドーザーで撤去しなければ一歩も先へ進めなくなったのだ。
もっとも早くアーンエムへ進攻できる筈だったアイルランド部隊が、こうして早くも遅れをとることになったーーー連合軍にとっての不吉な前兆はこの時に始まった。
また、イギリス第1空挺師団長アーカートは、別の地点に降下した同師団第2隊長フロスト中佐(アンソニー・ホプキンス)と連絡をとる為にジープを走らせていたが、ドイツ軍の砲弾の中で孤立してしまった。
ロンドンではソサボフスキー少将が気をもみながら空を見上げていた。
第2次輸送隊は、予定の時刻をとつくに過ぎているのに濃霧の為に戦地へ向けて飛び立てないでいたのだ。
ーーーその頃、アーンエム橋の対岸に陣どったドイツ軍のビートリッヒ中将は、連合軍の狙いがアーンエム橋を中心とする5つの橋であることを察知していた。
そこで、これら5つの橋を爆破することによって連合軍の足をくい止めようと画策するが、ドイツ軍本部はききいれてくれない。
ソン橋の近くに降下したアメリカ第101空挺師団の連隊長ホビー・スタウト少佐(エリオット・グールド)は、ソン橋が戦火で燃え、これまた進路を閉ざされていた。
こうして連合軍のマーケット・ガーデン作戦は、当初の予定より36時間もおくれてしまったのである。
謬着状態をつづけるアーンエム橋では、ドイツ軍のビットリッヒ中将がフロスト中佐に降伏を勧告してきた。だが、フロストは拒絶した。
ビットリッヒの機甲軍団は、以前にも増して猛攻してきた。
第82師団のギャビン准将は、防御のかたいナイメーヘン橋を突破するには、戦車で行くより、ボートを使うしか方法がないと考えた。
そこで、歴戦の勇士である若くてハンサムなクック少佐(ロバート・レッドフォード)に作戦の先頭に立つように命じた。
クックは、この渡河作戦がいかに無謀であるかを知っていた。
そのうえ、ボート運搬の都合でこの作戦はまっ昼間に決行せざるを得なかったのである。
400メートル巾の河を26隻のボートで260名の将校が渡る。敵弾が雨のように降る。クックの部下は次々に倒れていく。それでもクックは任務を遂行したーーー。
9日間の熱闘!
ソサボフスキーのポーランド部隊は霧の為まだイギリスを出発できずにいた。
アーンエムを死守していたフロスト部隊は壊滅し、フロストは捕虜となった。
オランダのアーンエムで生まれ育ったスパンダー医師(ローレンス・オリビエ)は、あまりにも変わり果てた町と死体の山をまのあたりに見て、ドイツ軍のルドウィック将軍(ハーディ・クルーガー)に戦闘中止を訴えた。
『これは、勝つか負けるかではなく人類の生きるか死ぬかの問題なのです』ーーー負傷兵の交換がはじまり、戦闘は中止されたかに見えたが、ドイツ軍は連合軍の徹底的な壊滅を狙って攻撃を再開した。
ーーーこうして9日間の戦闘で連合軍の戦死、戦傷、行方不明者は1万7000人以上。
モントゴメリー元帥は、戦争が終結に向かった時、次のように語った。『このマーケット・ガーデン作戦は90パーセント成功だった。我々連合軍は、遠すぎた橋へ行っただけだったけど……』
プロダクションノート
●口ケ地はオランダ国内で123カ所にも及び、ナイメーヘン、グレープ、アーン工ム大降下などは、すべて実際の場所で行われた(唯一の例外は、今では超モダンな都市となっているアーンエムの代わりに古都・デベンターが選ばれ、アーンエム橋そつ<りのウィルヘルミナ橋が使われた)。
●大物量作戦は想像を絶するほどのすごさーーー登場人員18万人、使用戦車360両、軍用機470機、大砲720門、自動銃1万9480挺、火薬1万9250キログラムーーー製作日数約
1年、製作費90億円というのもうなずけよう。
●真実味を増す作業は、資材ばかりではなく人間にも適用された。MG作戦生き残りの米英の将軍たちが、映画で彼らに扮する俳優たちのテクニカル・アドバイザーとして特別参加。ギャビン准将、アーカート少将、フロスト中佐たちである。
●第2次大戦、朝鮮、パレスチナベトナム戦争と、絶えず戦争を報道し続けた世界的報道力メラマンデビツト・D・ダンカンが口ケ現場へあらわれてひと言。『本物の戦場に再びやってきたような気がするよ』
●原作(”A Bridge too far”)は、ニューョーク・タイムズ紙ベストセラー・リストの上位に22週連続ランク。
コーネリアス・ライアンのこの原作本は現在まで27カ国語に訳され、2200万部以上の売れ行き。
●衣裳デザイナーのアンソニー・メンデレソンは、この作品の為口ンドン中の貸衣裳店を借り切った。それでも足りず、口ケ地のデベンターの町に衣裳倉庫を作り、エキストラ用のアメリ力、イギリスポーランド軍兵士の軍服を1年間作り続けた。
敗北に学べ!!
イギリスの優れた戦略研究家リデル・ハートは『戦争においては、敗北のみ学ばなければならない』と述べている。
軍人は多くの場合、戦争における勝利のみに眼を向け、それによって多くの場合、失敗と敗北を招いているように思われる。
1944年9月17日ーーー。
イギリス軍を主体とした連合軍は、その作戦の立案者であるモントゴメリー将軍の指揮の下に、ライン河を越えてドイツの主防衛線の一角を側面から脅やかす強襲作戦を決行した。
この作戦は、暗号名『マーケツト・ガーデン』と秘かに呼ばれ、イギリス陸軍第30軍団にアメリカ陸軍空挺2個師団(第191および第82)が協力し、さらにポーランド軍空挺旅団1個が支援出動するものとなったものだが、この強襲作戦は完全な失敗に終るものとなった。
9日間にわたる戦闘ののち、連合軍は目的を達成できず作戦地域から徹退するものとなったのだが、連合軍の損害は戦死傷行方不明あわせて1万7000人以上にも達し、特に戦火の中心となったアーンエム地区に降下した空挺部隊の兵員1万人余りのうち、脱出に成功して生還できた者は、その4分の1の2427人に過ぎないと言う惨たんたる結果となったのである。
では、この強襲作戦が決行された目的とはーーー。
1944年6月5日、連合軍は史上最大のノルマンディ上陸作戦を敢行。ドイツ軍の防衛線を撃ち破って進撃し、8月25日にはフランスのパリを解放し、連合軍は全戦線でドイツ国境に迫るものとさえなっていた。
アメリカの第1軍は、9月7日にはベルギーのリエージュを、9月10日にはルクセンブルグをと次々と攻略。
いっぽうイギリスの第21軍はアントワープを無傷のまま占領。カナダ軍はフランス本土でドイツ軍を掃討し、ダンケルクを除くすべての海峡の諸港の占領に成功した。
この連合軍の進撃速度は作戦計画のスケジュールを2~3カ月も先んじるほどのものであった。
この予想外の成功は連合軍の士気を高めたが、同時に作戦指導部において、ドイツ本土侵攻を楽観視せしめる空気を、仄かにでも醸成せしめたことは否めない。
それは『慎重すぎる』という評価を受けてきたモントゴメリー将軍をして、ドイツ本土の一角に急速に強襲作戦によるクサビを打ち込み、ベルリン占領の日を早めさせるという作戦構想を打ち出させるものとなったからである。
モントゴメリーは9月17日、このマーケット・ガーデン作戦を強引に実行に移した。だが、この作戦には、いくつかの難問題があることに充分の配慮を怠ったーーー。
①MG作戦のポイントとなったアーンエムへの陸地は運河で区画されている湿地帯であって、進撃の為の道路や橋梁を確保するには、大規模な空挺作戦と機甲部隊の急速進撃が不可欠であった。
②作戦目標のアーンエムは、ドイツ軍の陣地であり、ドイツの有力な部隊が守りを固めていた。
過信が撤退へ
結果的に連合軍はアーンエム攻撃のMG作戦に失敗し、撤退を余儀なくされる訳だが、このアーンエム攻略戦失敗の要因はいくつかあげられる。
●第1にはイギリス機甲師団の進出がドイツ軍の思わぬ反撃で大幅に遅れ、アーンエム周辺に降下した米英空挺部隊を孤立させ、苦戦に追い込んでしまった。
●確保すべき目標である重要な橋梁の遠くに降下し、目標地点に近づくのが遅れ、ドイツ軍の守りを固めさせることになった。
●第3には、作戦部隊全体の通信連絡体系の不備であり、加えて悪天候は連合軍に不利をもたらした(最前線で橋の確保に成功したイギリス軍が、ドイツ軍の反撃で苦境にたった時、ポーランド軍の空挺旅団が救出のために投入された。だが、悪天候の為に出撃の時機を逸し、イギリス軍は全滅の危機にさらされた)
これらいくつかのMG作戦失敗の要因をあげることができるが、それ以上に最も重要な理由がある。
それは、ノルマンディからアントワープまでの予想を超えた”成功”によるものではなかろうか。
この成功は、モントゴメリーにー撃戦法への信仰を強めさせた。
そしてそれは追いつめられたネズミ(ドイツ軍)の決死の反撃を充分に読みとることを怠らせるものとなった。これがアーンエムの悲劇であり、更にドイツ軍の大反攻・バルジ作戦へとつながっていくことになる。
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